吐き出すかのように。

さまよう俺の視界とか、ミルハウザー流の物尽くしで表現できたらきっとおもしろいんだろうけどそれは無理な相談で、なぜなら俺はミルハウザーじゃないからだし、そもそも物がないってのもある。自然と視線は一人のお客さんにとまるけど、俺はいい顔をしていない。
 十六席の小さな店内に、小さな体の少女が一人。栗色の髪を乱暴に首のあたりで後ろに流している。変な蝶柄のワンピースはまったく似合ってない。彼女は脂汗を額に浮かべ、逆手にもったフォークで十二皿目のティラミスに挑んでいた。水に手をつけた様子はなくて、フォークを突き立てる度にコップの水面が波紋した。
 テーブル席の戦場で一心不乱にフォークを動かす姿は確かにどこか感動的かもしれない。けれど、この子はろくな死に方はしないかもしれない。……と思ったらいきなり「ゲフ」とむせる音で、彼女は喰っていたものを全部吐き戻した。
 黒々としたティラミス吐瀉物があっというまにテーブルを侵食して、テーブルクロスを犯し、深い木目色のフローリングにとろりと流れ落ちた。
 彼女は俺を殺す。その心の中で俺は殺害されている。
 彼女は汚れた服をそのままに生まれたばかりの鹿のように弱く立ち上がると、足跡のように吐瀉物を衣服から垂らして早足で出て行った。床にくしゃくしゃになった一万円が転がっている。代金。拾い上げる。
 透かしがない。
 「まいどありー」
 掃除を終えると、やることは何もなくなった。
 どうみても中学生ぐらいの少女が、二週間続けてゲロを吐きにくる。意味不明でまるで人生みたいだって、夏樹ならいうかもしれない。
うだうだ考えるうちに、俺はその少女のことじゃなくて、実は悠月のことを考えているんだなって思って苦かった。
 口の中の苦い重曹を処理しようと、ウオッカを開けて勝手に飲んで、喉を焼く。

 俺の母親は医大で父と出会い、俺を生んですぐに離婚した。離婚したあとに行方不明になっていた母親はそれから悠月を生んで宇宙人にさらわれ、地球に帰還したとき悠月の父は元自衛官で魔法使いでFBI所属のねこみみがある実は狐の住民票不在な存在だったことを暴露し、驚く親戚一同に世界の危機をとうとうと訴え、地球は連合を組み宇宙人と宇宙船の支配をはねつける元気のいい政府作りを秋葉原駅前で主張して、塀の高い病院に叩き込まれた。最後は自分の脳みそを自分で食って自殺した。
 だから、悠月は嫌われたし呪われた。親の狂気をあますところなく受け継いだと信じられた悠月は、ありとあらゆる呪詛と憤怒と嫌悪と憎悪をうけて育った。親戚の叔父は悠月を「ゴミ」とよび、叔母は「悪魔」と名づけた。世界の残忍さが暴力と無視ならば、物心つく前から悠月はそのすべてをたたきつけられていたって俺は思ってる。目をつぶれる全てのことに目をつぶりながら痛みに耐えて生きた彼女は、十三歳になったとき唐突に旅にでた。五年たって帰ってきたとき、力ない声で「ただいま」って言って、胸にとびこんできたときに抱きしめることができたらさー? そういうことを陽樹に言ったことがある。
 「そりゃ、妹さんとヤリたいって気持ちなんじゃないの?」
 俺は激昂のあまり陽樹を殴りつけた。
 陽樹が嫌いだ。相容れないのに、仲良くしている。バカな二匹のハリネズミみたいな関係だって思ってるけど、陽樹にとってみたら俺なんてゴミかもしれない。
 でも夏樹は違う。夏樹にそういう風にいったとき、夏樹は微笑んで受け入れてくれた。夏樹は、そういうやさしさを発露するたびに磨り減っている。その磨り減り方は、ティラミスを食べる少女に似ているのかもしれないけれど、少女の必死さを夏樹がもつことはなかった。彼女は何もかもをあきらめた顔で好きな作家について語る。それは夢をみるような表情で言うけれど、夢を語る以外の語り方ではなかったのも確かで、それはだから、いつでも独り言に似ていたような気がする。
 夏樹は俺よりレベルの高い大学にいて、そのころはまだ小説を書いていた。
 最後は大体ぐちゃぐちゃになって終わる、まとまりがない話というか、なんの目的があって書かれたものかよくわからない話だったような気がする。魔法使いがでてきて、最後にリモコンをいじることに快楽を見出して部屋に閉じこもる、とかそんな話。彼女は自作の小説を実にいろんな人に見せていて、大方苦笑いでごまかされるのを僕ははっきり、あまり面白くないっすっていったことがある。
 夏樹は、「それでもいいの」といった。「あたし、大学を出たら死ぬから」「そうなんだ」
 「そうなんだ」と俺はいった。悠月もそんなふうに、俺にわからない何かについて、それでもいいって信じているものがあったらそれは救いだ。って思っていたからかもしれなくって、その意味で夏樹の一言は救いみたいに感じられたのかもしれない。死ぬってことも含めて? それはよくわからないけれど。
 いつからか、悠月も何かを書いていたこともあった。俺にはまったく見せなかったけど、実はこっそり読んだことがある。旅に出ていたときの記録と、たぶん実際に体験しなかったことをごっちゃにしたような物語。空想と現実が乱れているのに、水面に浮かぶ油膜みたいにはっきり分離してるしょうもなさ。俺はそれをこっそり燃やした。
 秋葉原で「元気な、にっぽんにーーいっしょ! に! しましょうよ! お花と、歌と舞が舞い踊り舞い上がるそういう国にしましょう! それには愛とm! m2! セックスが大事です! あと服も」と叫んだ母の言葉によく似ていたから、その嫌悪が働いたのかもしれない。その叫びはいったいなんだったんだろうって今でも思っていて、最近ではマクロじゃないかと疑っている。
 自立的なプログラムではなくて、依存に依存を重ねて増殖する寄生的な生命体。でもすぐ消える。安定した言葉――まるで実行可能なプログラムみたいなもの。そういうプログラムを言葉一つで組み上げるのは才能で、その才能がないっていうのは恐怖だ。そういうことで悩んだ作家はたくさんいるよ、と夏樹はいったけれど、そのときは手にできた花みたいなあざが気になって頭にはいらなかった。ストレスで噛んでしまうんだよって洋介はいったけど、洋介の知識は『ハチクロ』だから信用できない。夏樹がストレスで噛んだ「振り」をすることは実にありそうだなって思ってるけど、夏樹はそれが自分のSOSだなんて絶対認めない。その狂気。たとえば、自分が制御できない自分の部分が、自分の手を噛んでしまうような狂い方は、どんな正常さにも偏在しているんだろうけど、作家の苦しみにあるような頭のおかしいかぎかっこつきの「狂気」とかいうやつはそういうのとは別な気がする。夏樹はよく小説を見せてくれたり、ミルハウザーベケットの話を振ってきたりしたけれど、彼女と俺がどういう関係だったのかよくわからないけど、そういう話をするのは嫌いじゃなかったのは否定したくなかった。でも。

 悠月は部屋に閉じこもり、体重が四〇キロを切るまでほとんど何も食べずタフマンをがぶ飲みして暮らしていて、朝は七時から夜は十一時までずっと書きまくっていた。最初は鉛筆、次にボールペン、しばらくそれで続けていて、突然どっからかもってきたノートパソコンを使い始めた。書くものはめちゃくちゃで、話どころか単文での副詞の対応さえ守れていない。最初にいんらんだった女性が最後で処女になったり、ジェンガをやっていて地震があったあと「その部やはなにもなかったからだいじょうぶだったのだ」と平然と書く。結局何を書きたいのかさえ判然としない。それをどうしたいのかもよくわからなかった。それでも妄執としか言いようのない何かにとりつかれて、悠月は書いた。けど、冬になったとたんすべてをぱったりとやめた。それから何にもしないで酒を飲みはじめ、ソファに腰掛けて名作といってもいい映画を見始めた。ヘッブバーンやモンローを凝視する目から、ときどきは涙がこぼれ憎しみのあまり夜中に吼えていた。
 白黒の動画を眺めているとき、悠月はいきなり悲鳴をあげてテレビに襲いかかり、コードをちぎって窓に投げ捨てててててうえわああああああああああああああああ!!! って叫んで泣いてわめいて怒り狂った夜があった。俺はそれを制止しようとしてどうでもいいことを叫びながら冷蔵庫に照準を合わせた彼女の狂気を押さえ込もうとして失敗し、家中の電気が落ちた暗闇のなか、ソファの上で、組み敷かれた悠月は興奮で赤くなった顔で俺に役立たずと吐き捨てるようにいった。それで俺に向かって「あたしを殺せ」と二一〇回、壊れたレコーダーのように言いまくった。吐かれた唾にも耐えて俺はそれを黙って聞き届け、悠月が疲れて寝てから、家中の刃物と紐とはしごとドアノブをはずして回り、終わったあとで俺は夏樹のアパートにいった。夏樹はそのとき洋介に抱かれている最中だった。
 陽樹はきっと俺の知らない誰かを抱いている真っ最中だろうって考えながら、俺はアパートの前で二人が寝静まるのをまって、それから街灯もない暗い道をあてどなく歩き始める。くそったれって頭の中で何回も繰り返して。
 夏樹は十七歳の時に俺としたようにすごく傷ついて洋介が帰ったあとに泣くかもしれないし、そうじゃないかもしれない。陽樹はいつもとかわらず、タバコ吸って女に二千円をわたして終わるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、どのみち俺にできることは少ない。てか、なにもできない。「できる」って言葉に俺が自分でも信じられないぐらい完璧な行為を見ているからかもしれない。簡単にいえば、俺には自分自身を含めて何もかもを丸くおさめるだけの胆力と知力に欠けているってこと。
 電車の通らないガード下はどこの駅にも近くなかった。俺は転がっていた塗料のスプレーを拾い上げ、コンクリートの壁にいたずら書きを試みる。塗料は一瞬不快な音をたて、景気よく赤を噴出した。最初はバカって書いた。次にアホってかいてみた。となりの「BIGBIGABOIDER」の美しい落書きの「R」のあたりに「滅」の字をかぶせる。それから神の絵を書いてみた。俺にとって神って、世界で一番大きな卵で玉子焼きを作る王様だ。子供の頃にどきどきしながら読んだ絵本にでてくる、安い王冠を戴く世界の覇者だ。その絵は赤い線でふちどられたフライドチキンにしか似てなくて、絵心ないなーって苦笑する。
 俺はその線が俺に似てくるのを感じていたし、実際にそれはただの絵っていうか、俺だったんだろう。その俺は狂気におかされ絶叫し、死を渇望して狂っていて、それは母親にそっくりな狂気をズラすための必死の抵抗で、「哀れな俺」。目を閉じて。哀れなのはでも俺じゃない、俺は哀れとかのポジションにいなくって、いるとしたらたぶん悠月の父親のほうだろうし、悠月のほうだろう。俺は学校にいって普通に暮らし、それが終わればマスターが行方不明のカフェで普通に暮らしている。そういう普通さがあれば、狂気に浸る何かを管理する資格があるんだって思ってたのかもしれない。
 俺は悠月が五年ぶりに帰ってきたときに絶望と嫉妬と同様のあまり、彼女は狂気に犯されていると信じることにした。そうした信念は悠月を傷つけたに違いない。悠月は、世界中を回って自分と出会い続けた。ノートに記されたグアテマラの描写を覚えてる。
 『あの青い太陽に照らされていた大地は苦い味のコーラを思い出させた。コーラの味はあたしにとってグアテマラの大地の、茶色い地平線の向こう側にあるものだ。グアテマラは大地をもたない大地の上に浮かぶ、小さな飛行船なんだって思う。』
 その小さな飛行船のグアテマラは彼女のことにほかならない。コーラに見放された地平線。そんな大地にしてしまったのが親や親戚や悠月を狂わせた小さな世界の全てなら、その世界を飛び越えたところにも彼女の安息はなかったことになる。その安息に俺はなるべきではなかったのか。そもそもそういう存在になるために、いままでの自分の道を選択してきたはずだったのに、俺は。でも、それはわからない。そういうのはかっこつけてるってことなんだろうなって思う。うだうだうだうだうだうだうだうだうだうだ。
 俺の思考は俺でさえ偽善と悪意にみちていて気持ち悪かった。目を細めて、その気持ち悪さをガード下に表現しようとして、警察にしょっ引かれたのが十二時ぐらい。
 帰ったのは十一時ぐらい。それからソファで泥のように眠って、おきたら悠月が手首に傷をつくって酒を飲んでDVDをみていた。痛いと口に出した。痛いといった、いたいといった。痛いといった、痛いといった遺体といった、イタイといった、痛いいたいいたいたい、
いたい。いたい。痛い、痛い、異体いた、い、いたい、いたいいたい、いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいイタイイタイイタイイタイ。いたい、痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたい痛い痛い痛い……。

 二月二日。ゲロ少女は店にくるなりティラミスをいきなり三十六皿頼んだ。いままでは一皿ずつだったけれど、なりふりかまわずになってきたわけだ。観念した顔、まるで判決をまつ罪人のようにティラミスが運ばれてくるのを待っている。彼女は手のひらを噛んで、俺はティラミスのホールを切り分ける。
 盛り付けもいい加減にテーブルに皿を置いた。
 俺を見る目に憎しみの火が宿る。
 それでいい。とでもいうように俺はうなずいた。
 最初は余裕がある。一皿、二皿目は余裕だ。手馴れたもので、焦ることなく消化していく。八皿目で余裕が消えた。十二皿で目が充血し、フォークが止まり始め、十五皿目で飲み込めないスポンジの代わりに舌を噛み始める。鳩時計の秒針が急かす。十六皿目で足踏みがはじまり、手が振るえフォークを取り落とし、悲鳴の変わりに握りこぶしをテーブルにたたきつける。しきりに口元を押さえ、過呼吸で全身に痺れが。やめれば? なんて絶対いえない。こちらに助けを求めるような。
 戻すことなく二十皿目まで到達した。ここからが高い壁。二十一皿目に食欲はない。憎悪と憤激だけが少女を駆り立てていた。髪を引きちぎり、頭につめを立てる。頭頂部の掻きすぎで指に血がこびりついていた。二十五皿。俺は口の中がすっぱくなるのを感じる。吐き気。少女は逆手にもったフォークをケーキの真ん中に突き立てる。
 彼女はぱんぱんに膨らんだ口を抑えて、咀嚼を行為する。飲み込んだ。かき抱くように下腹部を押さると、頬が食道からのリバースで一気に膨らんだ――でもまた喉へ押し戻した。
 少女の苦しみが、俺の背中を撫でる。俺は笑う。笑って二十八皿目を差し出した。チョコレートは武装ミントは脅威。テーブルに突っ伏した少女は、でたらめな呼吸で真っ青な顔をなでた。「しびれるよ」。独り言。顔をなでる。「しびれる。らんしょくららい」
 うつろな目を見開いて、フォークをなめた。それだけでもう苦痛に顔をゆがめる。
 俺は彼女のそばで、それを黙ってみている。腕まくりをして、彼女は全身をしばる全てをかなぐり捨てる。ベルトを投げ捨て、パンツを脱ぎ捨てた。白いパンツはもう彼女を守らない。ゆっくりとブラもはずす。身に着けるのは、薄いワンピースだけ。白い肌が透けて見えた。細い呼吸で大きく息をつくと、体一つで、少女はふたたびフォークをケーキに突き刺した。衝撃は茶色のスポンジを貫通して、皿にまで伝わった。
 こみ上げる嘔吐感を阻止しようと自分の喉を握りつぶすように掴む。その苦しみをあざ笑うかのように、かすれた声で声にならない悲鳴を数え切れないぐらいあげて、もだえて、うわああああああああああああああああああああ!! と悲鳴をあげて今度はフォークを自分の掌へ突き刺した。激痛に口元がゆがみ、一瞬の屈伸で微量の吐瀉物がはじき出された。
 痙攣がとまらない。フォークで貫いた血まみれの手のひらで、ティラミスをわしづかみにする。落ちた皿が甲高く鳴る。口に押し込む。目に涙、うめきとあえぎの混ざる呼吸。

 洋介がどこかに消えて数週間。曖昧な雪が曖昧に降っていた。夢を見るような気持ちで、俺は並木通りを歩いていた。陽樹が向かいからやってきたのは偶然だったかもしれないけれど、多分待ち受けていたんだろう。彼はほがらかに「やぁ」なんて挨拶をする。俺は無視して歩き去ろうとする。ハンプティダンプティ気取り。
 「いつまでそうしてるんだよ。わかりやすい傷つき方をするな。世の中にはもっとややこしい傷つき方して、その表現に悩むやつらがいる、らしいよ?」そうかもしれない、でも、そうじゃないかもしれない。頭の中で小さく反論。
 「ただいま」っていったとき、夏樹が悠月を殺そうとして失敗し、玄関に青い顔でうずくまっていた。胸から血。革靴を履いて、彼女は立ち上がる。苦しげに言う。
 「あなたって、無駄にやさしいところがある。そこが嫌い。さりげないやさしさや他人を傷つける。そういうのが、いや」
 「期待を持たせるから?」
 「あなたは狂っている。あの、呪われた娘と一緒、その母親と一緒。そいつらを助けようとして失敗したあの男と一緒だと思う」
 「……君は歩くのが早すぎる」
 「あなたの歩幅に合わせていけないのは、あたしのせいなの?」たすけて?
 「俺のせいだよ」
 「やくたたず」
 夏樹は、吐き捨てて出て行った。玄関をでたところで折れた包丁を捨てたけど、こびりついた血は誰のものかわからない。
 家の中をめぐる。扉を開けるたびに、中で首を吊って死んでいる悠月の姿が目に浮かんで胃がきりきりと痛んだ。悠月の部屋を最後にまわった。悠月はベットに寝そべっていた。洞のように空虚な目の奥のほうで、ころして、っていってた。

 三十六皿目を置いたとき、俺は心臓をこの小さな少女に握られているような錯覚を覚えて胸を押さえた。じっとりと汗。
 テーブルも椅子も砕けている。偽装の木目からベニヤ地が咆哮する。ここまでのことを俺は黙ってみていた。
 彼女はもう座っていない。横たわっている。額から流れる血を必死で舐めながら、内臓の不快を押さえようとしている。喉から空気が漏れる。
 「……きつい」
 肺にまでケーキが詰まっているような声だった。大地の深いところから、響いてくるような地鳴りだった。声帯を響かせるその動作さえ、致命症になりかねないほどに危険な状態だ。
 餓鬼のように腹部を膨らました女は、遠くを見据えるように眼前のティラミスを眺め、血も神経も切れた腕、チョコとゲロとスポンジでぐしゃぐしゃの手を伸ばして掴む。握りこぶしの形にへこんだスポンジを口にぶち込む。全身が爆ぜる。よだれとケーキと胃液の混ざったものがだらしなく口からこぼれる。それでもなお、その嘔吐のゼリーを再び掴もうとする。
 俺は腕を踏みつけた。ぴりぴりするような全能感。床に転がっているそれはもう人じゃない。
 自分に言い聞かせているんだって思う。
 「もうやめなよ。」
 俺は今血の海に沈んでいる。目の前で転がる少女の殺意に射抜かれて。その空想の中の俺は間違いなく、もっとも残虐な方法によって無様な肉塊にされているに違いない。
 へっ、と彼女は笑った。全ての軽蔑がこめられた勝ち誇った笑い。
 ティラミスは、なくなっていた。
 食べきったのだ。
 「すみません」
 影がすうっと長い矢のように伸びている。夕日を背にして、中年の男が立っている。
 「娘が、邪魔をしていると思うんですがー」
 男は汗を拭きながら店内に入ってきた。少女の腹部を蹴り飛ばし、ひとしきり「中身」を出してから、引きずって外に出て行った。二百万円の塊を無造作にカウンターに置いて。
 「あの」
 「なにか?」
 と聞いてきた。無表情、無感情。顔には表情が張り付いているはずなのに、それが何かまったくわからない。
 まるで、底なしの穴を見ているような錯覚すら覚えるような圧倒的な無があった。
 圧倒だった。
 手が痺れるような威圧感。思わず、
 「いえ」
 といっていた。視線をあげると、男も少女もいなかった。じっとりと汗ばむ手を、握り締めて、開く。その開いた手はなにかで汚れていて、顔を覆ったときに黒い仮面をつけたみたいな気がして。

 新聞に偽札作りの組織がつかまったと出た翌日も、少女は店に来なかった。夏樹とも会っていない。洋介はまだ行方知れずだ。
 俺は悠月と一緒に樹海に入り、死を覚悟したのに俺は一人だけで帰ってきた。彼女は魔にさらわれた。俺は殺意をもてあそんでいて、死やら夢やらの概念と戯れていたけれど俺には森の痛みがわからない。俺は自分の血を過信していた。でも悠月はその血に惹かれて、暗闇とともに悪魔の起きる朝から風精のように去っていったんだ。
 「ちは」
 とかいって入ってきたのは、陽樹だった。ゲロ少女がよく座っていた椅子にどかりと腰を下ろし、とまってる時計を一瞥。
 「明日直すよ」
 聞かれてないけど俺はいう。
 「今日直さないところがおまえらしいよ」
 笑う。それで、ちょっとだけ無言の間があった。
 「で、何してるの?」
 「客を待ってる。」
 「俺、きたじゃん?」
 「注文のないやつは客とはいわない」
 「んじゃ、コーヒー」
 「一緒にティラミスとかはどうだ? 四〇皿ぐらい」
 「そ、それはなんかの罰ゲーム?」
 それから大学の様子やら、家の様子やら、マスターはいまだに行方不明だわ、最近付き合った彼女に六股をかけられた話やらをして時間をつぶす。窓から差し込む明かりが夕日に変わったころ、そろそろ帰るわーっていって陽樹は立ち上がって、
 「待ってるのは大変?」
 て聞いてきた。
 「さあね」
 なんて曖昧に語尾を濁すけど、陽樹はこうみえてけっこう俺のことを心配しているんだろう。
 「いっそ、帰ってこないほうがいいのかもね」
 陽介はそういうけれど、ティラミスはちゃんと四ホール置いてあるし、いつでもおかえりっていう準備はできている。
 いつかこの部屋をミルハウザー流の物尽くしに変えてしまう夢だってまだみてる。