平和について考えてみた。

 
暇だったので平和について考えてみた。

平和ってなんだろう。どうしたら平和になるんだろう。
ということだが、俺は平和を考えるための前提をこういうのを持ち出してみた。

  • 平和は概念である。
  • 平和は複数の概念を含む。
  • 平和には正義を含む
  • 平和は理念を含む。
  • 平和は信念ではない。

ということである。わかりにくいが、「平和ってのは目には見えないけど実在するんだよダラズ!」ってことと「平和は正義から考えるといいんだよダラズ!」ってことである。ダラズって語尾ね。
 
平和についての漠然としたイメージのぶつけ合いは不合理なので、平和は信念ではないとした。平和とは個々人のハートのうちにあるのではなく、互いに平和という理念を構築し、認知しあうことによって初めて平和たりうるんだろう。根拠のないことを言う奴は、「俺を信じろ!」というのを根拠にするんだろうが、「俺を信じろ」じゃ平和になりませんよ、ということ。
 
そこで俺が平和のたたき台にするのが、理想的対話状況の理念と、正義の観念だ、ということ。
このばあいの正義はロールズっぽい考え方が強い影響をなしている。この場合の正義というのは規範倫理の土壌で論じられるべき問題としてあるんだけど、そこらへんの議論はやや省く。この場合の正義とは、一言で言うと公平だ。

ごくごく結論だけ先取りすると、俺のかんがえかたはこうだ。

  • 平和とは正義である。
  • 正義とは公平を原則とする。
  • 随って、平和とは公平の概念である。

では何が公平なのか。公平の定義はなんなのか、どのように決めるのか、というの問題を解決するのが、理想的対話状況、とハーバーマスが述べる方向性だ。つまり、フェアな話し合いで解決しましょうってことである。
 なぜなら、定義を定めるのは言語だからである。他になんかあるんか? 
 言語の運用は言語能力や言語そのものによって違うかもしれないけれど、それらは内容と物語性において全ての言語が通訳しうる、と信てもいいだろう。
 問題なのは「話し合い」が対話の状況で行われない。妙な力関係や性格の一致不一致などで妙な力関係が働いてしまう。国どうしのことになればなおさら。
 ということで、この理想的な対話状況を作り出すことがまず目標であろうと思われる。だが、「理想的な対話」でなくても、満場一致で帰結されるいくつかの努力目標が生まれる事は容易に想像できる。「戦争やめよう」「地球を大事に」「ガンガンいこうぜ」など。
このような努力目標の遂行は、理想的対話状況の確立と同時に遂行していくべき目標になるだろう。

でもそんな風に満場一致できまることなんてないだろう。そのためにルールがあり、そのためのルールをつくるのもまた対話によるのである、ということで、対話という概念はとても大事なのだよ、と思われる。

ここに武力を持ち込んだり、脅しすかしをやったりすることは「フェアではなく、理想的な対話をもとめていない」という点で平和の概念に、正義の理念に反する。

ということ。大雑把にいうとこんな感じである。「誰が」その平和を画定するための対話に参画するのか、そもそも「全員参加」なんてむりだろ、それに対話だけで解決する問題ばっかじゃないだろダラズ! という問題についてはまた後ほど。