たまには。

たまには和歌の研究をしてるってところを見せつけようとおもった。


東方妖々夢』に幽々子様のステージで「ねがわくば桜のもとで春死なん その如月の望月の頃」という和歌が引用されていますね。
 これについてちと書いておこう。

 この歌は西行法師が『御裳濯河歌合』の一首。新古今、山家集、にも取られる。(ただし、『新古今』ではない本もある』
 この歌合は文治三年(1187)秋に自作の和歌144首を選び、二回にわかえて三十六番の歌合として(自作で構成される歌合を、自歌合という)伊勢大神宮に奉納しようとしたイベント。自歌合としては最古のものといってもいい。「こむ世には心のうちにあらはさむあかでやみぬる月のひかりを」の歌と番えられている。
 判に「これはいたれる事なり」と伝えられるように、半端な志のものではなくあはれふかく仏道にもふかき道を通じた西行がよんで初めて名歌となりうるものだといわれるとおり、まさに「半端もの」では読めない境地である。死を視界に納めていつ死ぬかを心待ちにするような、どことない諧謔性さえ読み手にうったえかけるまさに名歌であるといえよう(やや適当)
 
 歌意は、「願っているのは、桜の木の下で春、釈迦の入滅のその日満月頃に死にたい」という感じ。「春死なむ」と三句切れで一度区切り、そのしたに釈迦の入滅日と満月を重ねる趣向になっている。

 この歌は『長秋詠藻』(俊成の私家集)に長文の詞書と左注とともに入っていて、西行がこの歌のとおり、文治六年の二月十六日、満月の日に死んだことを伝えている。この歌を追慕するように、俊成は「ねがいおきし花のしたにてをはりけり〜〜」とよんでいる。また慈円らも同様の追詠をしており、当時西行の死が衝撃をもってむかえられたことを示しているだろう。


東方においては、こうした当時の西行の状況からきりはなして、幽々子の「死をあやつるていどの能力」や、西行妖という桜の木(西行は月と桜を読み込む歌人であった)との関係から当該歌のイメージを引きあわせている。桜と死を結びつけながら、まさに死出の旅路をいくルナティックシューターたちを誘う、なかなかのチョイスといえるだろう。 


 使えそうなものには、歌では「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかやあか月」という明恵上人の異色の歌もある。これはなかなかおすすめ。

と、やや適当ながらこんな感じ。