ああ、おれの、おれのもにゅもにゅがぁあ!

そうだ。ひさしぶりにまじめな話をしよう! 俺は真面目な話とかもするべきだ、ヤッタァ、オイッシイイイイイイイイイイイイイイ!!!

現代文芸のことについて語ることにするとするぜ俺は! 俺だ、か、ら!!!

ええー、とか書き始めたけど、現代文芸についてよくしらないんだよね。
知らないけどまぁつらつらいってみると、

純文学<<<<<<越えられない壁<<<<<ラノベ(広義)<<<<<<越えられない壁<<<漫画

という経済状況はあるわけだ。新書、学術書はとりあえず除く。
で、純文雑誌。えっと、新潮社で『新潮』と『新潮45』をあわせて年間赤字が六億円か、すごいな。ここまで不採算部門だとむしろ笑いたくなってくるぜ。
で、それが『文学界』『群像』『三田文学』、われらが『WB』は除くとしても、年間赤字はすんごいことになってるわけか。
まぁ、いまさらこの話題を盛り返す必要はないんだが、もし新潮あたりが「あー、文学もーやめた!」とか、アメリカンな経営者とかが「OH! 赤いのKILLデスネー」とかいったらもうオシマいでしょうこれは。どこでいい訳するんだよ、ってぐらい赤字だもん。
 でもわれらには「文化の担い手」(=人の形した光)という究極ないい訳があって、「俺ら、文化になってるぜ!」って主張したり、「文学者、超絶頭いいぜ! だって教科書のってるし!」とかいう言い訳はできるだろう。通じるかどうかは微妙だが。
 
 でも昔は別にそうじゃなかった。大学がばしばし金だしたし、今で言う「東方」みたいに同人誌だったころもあった。今でも同人作ってるしね。
ところが、文学さんは膨れ上がり巨大になり、新聞の紙面をかざりテレビに出演し、文学さんがどういう人なのか誰もしらないのにあがめられる神様みたいになっている。そのくせ出血多量。自分の足元がどうなってるかわからない恐竜の、瀕死のそのときに似てるかもしれない。
 でも恐竜には、ようするに社会の貢献が必要になってくる。社会さんメッチャ怖いから、「うらー、てめーはなんの役にたつんだよふらああ」ってめっちゃいってくるわけだけど、これは別に恐喝してるわけじゃなくて、役立たずはいるなよ。しねよ。っていう雰囲気らしい。


 作家は利用価値があるけど、作家志望は死ねばいい。

 という考え方に通じてもいるかもしれない。俺も作家志望、という言い方にはうーん、という感覚がないわけじゃない、むしろある*1
 そもそも作家は「目指す」類のものなのだろうか。作品を書けば作家だろう。作家としての社会的地位を目指してるんじゃないのそれって。その社会的地位ってのは「文壇」とかいうあるのかないのかわからないコミュニティの参画以上の意味があるのかないのかもよくわからない。本になる、ということへのアウラ。そんなものにまだすがるつもりか。あるいは。
 

 いやいや、こんな話はどうでもよかったんだった。暗くなってごめんね。ポジティブにいこうよ。


 で、文学さんが生産する「文学」にはいくつかレベルがあって、それは文学さんの定義とは別に「文学さんっぽい」ものも文学である。
 大赤字の文学さんを支える、ラノベとかも文学さんだ、といえるかもしれない。言っちゃってる人もいる。

 で、文学には「芥川」と「直木」という二つの有名なシンボルがある。でもどっちもいうほど買われない。受賞作で黒字をだす、カンフル剤みたいなものだ。そこから生まれる「作家アイドル」の文化的価値(かわいい、テレビでよくみる、CMでよくみる、すごいコメントをだす、おもしろい作品をつくる、衝撃的、エロチック、あー、なんかやらせてくれないかなー、などなど)へのギャンブルという側面もあることわすれちゃいけない。
 出版社も慈善事業でやってるわけじゃないのだ。いや、もうほとんど慈善事業だけど。

で、文学さんが弱いのは、買われないからだ。単純に、お金にならない、ってだけじゃなくて、誰も知らない。知りたくもない。あってもなくても同じ。そういう存在に近づいている。
 そこで文学さんには二つの選択肢がある。一つはいままでの道を堅守していくか、もうひとつは別の道を探るか。
 堅守のみちは、自分たちが蓄積してきた表現の延長。これは六十年代以降にポストモダン文学とか、目くるめく言語のうんちゃらーっていう感じで「意味不明」の文字列を作り出す方向性と、もうひとつはみんなに喜んでもらえるようなものにシフトするか。
 言葉にこだわるか、中身をゆるめるか。ここらへんのすみわけは、レーベルの違いで今表現されている。

 あと一つあるような気がする。それは、メディアミックスだ。
 言語へのこだわりは活字の独自性を生かすかもしれないけれど、そもそも読まれないのでは意味がない。なさすぎる。
 活字の独自性がそもそも存在するのか、という問題もある。


 文学さんのリソース(資源)は実は膨大な量になる。また、広漠たる質もある。それを映画にしたり漫画にしたりするのは昔からあったわけだけれど、文学者を食わせる意味でも、文芸が可搬性をもちうるという意味でも、こっちの方向性もまたあり。

その意味で、ちょっと注目の雑誌があったりするわ。

ポプラ社
ポプラ社のこの雑誌は文芸作品と漫画のコラボレーションを真正面からうたっているという意味で貴重であり重要だろう。中身は実際にかって読んでください。物語という形式は移転しうるのだ。
この移転が有意義な例として、コミックシリウスのルート225をあげたい。

この作品にあるこんな描写。

ダイゴは地下鉄をいやがったけど
あたしは好き

夕方になると地上出口のすぐ側におでんの屋台が出る
それをチラ見しながらスタバに入ろうかどうしようか
今日はいいや
居酒屋にも用はない
ローソンには寄っていこう
リップ忘れたの思い出して隣のドラッグストアに移動
ヨシギューの前を通ったせいだろうか。

欲張りな標語だな・・・・・・

コロッケ屋さんはいつもいいにおい
さっきまでダイゴが途方に暮れていた児童公園

以下略。この描写は一こま一こまに押し込めて展開されるんだけど、こうした表現は、心内語だけでつらなる文章によって発見される「外界」。この構図はノベル→漫画という移行によって発見されたものじゃないだろうかと思った。「欲張りな標語だな」のところで文章の狂うリズムを、漫画は同じコマに押し込めることでリズムを崩さずに、しかし途中に挿入される強力なイメージとして提唱する。

こうした方向性での作家の利用、物語作者のフィールドは、ぜんぜんありでしょう、と俺がいってもいいんじゃないのかしら。少なくとも「ほら、文学さんってこういう人たちを生産するんだよ」っていういいわけには使えるんじゃないかしら。
 もう一つ。こっちならば「文学者」を食わせることができる。

  • ほんとうはミッドエンドの文芸誌について述べるつもりだったんだけど、まぁいいやもう。

*1:だから作家を目指すな、という意味ではない。多数の読者を抱える作家へのあこがれや、文学的感性を試そうという気持ちはむしろ応援してもいい。