こどものじかん
最近電車の中で古典を読んでるんだけど、これがなかなかいいような悪いような。気になるところがあってもメモがとれなくて困るんだけど、まぁそれを除けばいい感じ。
で、今日はなぜかこれを買ってしまったのです。
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- メディア: コミック
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『こどものじかん』というとやや炉理というか、ペドっふぉい人が好きこんで、しかも俺みたいな漫画のライトユーザーが読むような本なんだけど、これを電車の中で読んでいて胸が痛んだ。
こんな台詞があるんだよ。例えばね。
「この人ちかんでーす」
「んなーーーっっ!?」
ぎゃははは、せんせーちかーん。ワーー
「ちっ ちがいます! オレは先生で… 鏡! 九重ーッ」
がやがや
「チッ」
「うるせーな」
「なにやってんだよ教師は! ったく」
カッ気にするな
当然だオレも
先生になるまで
「電車のガキうぜーっ」って思ってたじゃないか
「静かに!」
…もし 民間に就職してたら
今頃オレも
あっち側で
「ガキうぜー」って
思ってたろうな…
ですよ。先生だっていくつもある人生の可能性から、なんかの事故と都合で先生になるわけで、「もし」ってことばはいくらでも使える。「もし」を使わないやつなんていないし、使っちゃいけないやつもいるまい。でも、その「もし」で子供とか九重や鏡をみてしまったら…。ということの、ゾッとするようなおぞましさ。もしの鏡。もし、のガラス。もし、の。
というか、この「うぜー」っていうのを「教師なんとかしろよー」といってしまえば自分に責任ないような気持ちになってしまうし、教師なんとかしろよーとか、てめーみたいなガキが日本だめにするんだろーとかいっちゃいそうな感覚っていうのはオレはすっごいわかってしまう。
推定少女にもあったかな。
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それはともかく、この推定少女もそうだけど、子供っていうのは大人の象徴界にうかぶメタファーみたいなもので、実体がそれとしてなくてもそれとして機能するようなそれ。子供っていう白紙に俺たちはありがちな記号を書き込んで勝手に読んでるんだなってつくづく思わされる。
オレがそれで悲しむのは、まさに、「あっちがわ」にオレがいつつあるっていうこの現実だ。この現実はもうオレが子供じゃない、っていう意味ではなくて、「子供」を知ってるような気持ちになってしまっていて、知らない「そいつ」に子供のレッテルをはって満足するような卑猥で卑小な解釈チャンクを身につけてしまったことの絶望だ。
そもそも「子供うぜー」とかいうやつに限って、企業で教育上ヨロシクナイものをつくりまくりながら「日本の教育は」とかのたまってるに違いないっていう妄想も象徴界の格闘なんだろう。でも、でもさぁ。オレはさぁ、そういう目で見るのイヤなんだよほんと。
で、そういう目がないと子供なんて見れないわけだ。異文化としての子供っていう本があるけど、そんなのめじゃないぐらいにさ。
ああもう悲しい。この悲しみの渦のなかでおれはお風呂にはいるだろう。そして教育実習にいったりするんだろう。
あああそうだ、教育実習!! これ、これをなんとかしないと! しな、いっとおおおおおおおおおおおおおお!! だってあれだよ、だってそうだろ! ああー、誰か研究授業一緒にやってくれーーーたすけてまっち、たすけてえーりん、えーりん!! えーりん!! だめだこr
子供なんてウゼーんだろうか。子供が好き! という人は、「子供」という何を好きになるんだろうか。子供が好きなのは妙な義務感や使命感や仕事越しの……。
とかいろいろぐるぐる考えてしまったわ。
この妙なリアリティが「こどものじかん」には散在していた。レイジとりんとの歪んだ親子愛とか、あれは肯定するべきなのか、否定するべきなのか!? 異常にませた言動や大人用の下着をはくスタンスの九重りんというキャラクターに、現実の小学生にありそうだ、という類のリアリティーを覚えるのではなくて、そうした「ゆがみ」はどうして歪んで見えてしまうのか、ゆがんでいることがゆがんでいることにとってどういう意味をもってしまうのか、というような疑問を呼び起こしてしまう。それで解決しない。
これが恐ろしいのは、ふつうに接したときにそういう目で見てるということがでてきてしまうってことだろう。「普段どおりにやればいい」という「普段どおり」の、恐ろしさ。
白井先生の圧倒的な指導力(女王の教室の影響かな)や、性的経験で大人の度合いを測りあったりする態度が、実際の教室でおこなわれていることだとはまったく思わないにしてもさ。そういう計り方をしている「こっちがわ」と「あっちがわ」のことを考えるとげんなりしてきちゃう。
かなとか、ゆりとか、のもっちゃんとか、たっくんとか、読んで感想聞かせてくれないかなー? まいたけやmanthanoはいいやもう。
もうだめだ。いろんな意味で。
- ちかぢか、なにか起こすよ。