結局まとまらない考えの巻

東浩紀の「文学環境論集L」を読んだってことはずいぶん前にも書いたとおり。そこでちょっと思ったことを書いてみよう。

データ検索型権力

東は、フーコーが提示した近代において発動した権力の形態を「規律訓練型権力」と認め、これに変わる新たな権力形態が、インターネットや検索エンジン、情報管理技術の進歩などによって顕現してきた、と考える。
 それが「データ検索型権力」である。そういう名前だったかどうかあやしいが、とりあえずそうしよう。
 私がぱっとみた印象では、規律訓練型権力ボトムアップ式の権力形態であり、他者の目の内面化などによって自分自身が自分自身を律してしまう。その律は上位、あるいは基底部のアーキテクシャに都合がいい形のものにすぎない。しかし、その内面はそうしたアーキテクチャからの強力な外圧ではなく、さも内面からの要請によってなされたかのように作られる。そして、人は知らずにコミュニティが要請する倫理観に自分を改造してしまうのである。やや間のわるい解釈と説明だけど、まぁこうしておこう。

 「データ検索型権力」とは、一言で言えば人という存在のあらゆる公的行動、私的情報をデータとして収集し、それを適宜保存し、必要に応じて利用する権力構造のことである。これは社会やコミュニティの基底部にあるアーキテクチャに不適合なものをサーチ、セレクトして分析すると同時に、社会のトップに都合が悪い存在を「捏造」することが可能になる。
 こうしたデータは普段は収集されるだけで無害だが、必要に応じて利用される。その利用の仕方はその権力を握るものによって決定される。
 たとえば犯罪者の「異常行動」などがそうだろう。犯罪者一人の生活や人生は多様な場所にデータ化されて保存されており、マスコミはそれらをつかって「さもそういう犯罪を起こしそうな人物像」を捏造する。異常行動やちょっとした失言など、普段は素通りされるデータをselectして犯罪者像の成立に使用するのである。
 逆に普段の私たちはそうしたデータの集合として見られていると言い換えることができる。いってしまえば、私たちは「私たち」として見られるのではなく、社会や社会のアーキテクチャによって「必要な情報」をもった存在として成立することになるのだろう。それが肩書きだったり職業だったりお金だったりいろいろだ。また「不必要な存在」もそうしたデータ如何によって決定される。NEETのような曖昧模糊とした集合体も、それらに共時するデータの存在によってその他のデータは全て無視した上でひとくくりにされる。

以下俺の思いつき

 で、こうした「データ検索型権力」の行使は、「物語」の働く場所においてなされるのではないだろうか、というのが今回の主張である。
 「物語」とは、本来一つの出来事を語る話形であったが、「データ検索型権力」にとってはようするにデーターの都合のいい並び順しかささない。いわゆる創作を除いて、たとえばヒトリの人物の伝記や、何かの出来事を叙述する形の「物語」はある種の必然性によってプロットを構築されることが多いはずなのだが、データ検索型権力にとってはそれらのプロットを構築する物語のセグメントを自由に収集、分類、構築することが可能なのだ。このセグメントの順列組み合わせを歴史として提示することが許されるなら、そこではもはや歴史は歴史的な出来事の羅列や、時代の背景ではなくて、検索要件のselect文としてしか記述されないということになる。

 やや論証を飛ばして結論だけいえば、「データ検索型権力」の元では、「歴史」は物語ではなく収集された情報の共通項によって語られる、ということになるのではないだろうか。その歴史は僕ら一人ヒトリの犯罪歴や学歴、あるいはいわゆるヒストリーなどを指すのだろうが、ある種の歴史哲学者は歴史観というものは倫理によって構築されるものだとしていたし、あるいは歴史にはある意味での実体が存在しているともされていた。
 しかし、それらの倫理は「歴史的な出来事」というはずせない重要な事項を記述することで成り立っていたし、そうしたものがはずせない重要な事項だ、というのはほかに記述するべきことがなく、記述を行うための資料がなく、方法もなかったから慣例的に重要だとされていただけだ、と「データ検索型権力」は述べることができる。

 だめだ。考えがまとまらなくなってきたのでこのへんでやめだ。