魔術含みの土曜日
NOX
昨日はNOX OCCULTAの勉強会でした。
manthanoが報告を行ったのだけれど、まあ難というか、問題含みの二時間半だったわけで。
あらためて魔術とは何か問題含みであることが発覚した二時間半だったともいえる。
いろんな議論がでたが、魔術の魔術性について触れておこう。
まず基本的に、現代において魔術の魔術性は「魔術である」ということによってはどうやら担保されないらしい。つまり、魔術はメタメッセージとして「これは魔術だよねー」というある種軽蔑的な雰囲気を内包していないと、魔術なんてものを認識できない、らしい。
魔術が生きていたコンテクストの中に僕らはいない、ってこと。
そこで「これは魔術だよねー」というメタメッセージを無効化してくれるのが、manthanoによれば「フィクション」という装置なのだそうな。言い換えるなら、フィクションの中にしか魔術は存立できない、ということなのかもしれないが、その例示としてだされたのが「クトゥルフの呼び声」というTRPGだったのが、この考え方の困難を示していたと思う。
クトゥルフの呼び声は「金枝篇」を魔道書として扱うコンテクストとして例示されたのだけれど、*1、はっきりいって????なくうきがただよってしまった。
これは「これはゲームの約束事である」ってメタメッセージの内部に「このゲームでは金枝篇は魔道書である」というメタメッセージを内包している「TRPGのルール」に我々がどれほど心理的にコミットできるか、が試されたわけだけれど、残念ながらスムージーさんも俺も全く理解できなかったのである。
「そんなお前はおおいなるクトゥルフに出会ってろ!!」
というわけだ。
いうまでもなく「金枝篇」は退屈な書物で、しかもでたらめが多い、安楽椅子文化人類学者のほんであるから、どこをどう読んでも魔道書ではない。断じて魔道書ではない。
まさに名が実をうわまる一冊なので、その特殊な享受の例としてはクトゥルフの呼び声は面白かったにせよ、それ以外ではどうしていいかわからなかったのは確かなのだ。
**とはいえ
とはいえ、逆にこの問題は「僕たちはどうやったら魔術に触れられるか」という深遠なる問題に直結した。
魔術に触れるために必要なものってなんだろうね。
スムージーさんは「魔術は自己に宿る」と定義してみた。俺は「魔術とは儀式性と非日常性であり、それらを担保するのは呪だ」と定義した。manthanoは「フィクションだ」と述べた。それぞれの議論はくだくだしいので述べないが、俺のは「魔術っぽい雰囲気に耽溺するだけ」でスムージーさんは「魔術と呼ぶ必要があるのか」manthanoは「魔術じゃなくてもいいじゃん」というそれぞれ手痛い反撃を受けて、一時撤退。
その他に宗教と魔術、呪術との違いなどが問題となったけど、これもまぁどうでもいい。
てかまじNOX要求レベル高すぎるよ! なんだこの魔術廃人どもは。 僕は次回たぶん七月なので、次は仏教を取り上げる予定。