金色の砂を食らえ愚か者。

 体調、というよりも体力の低下が著しい。そりゃ寝てばっかだったからしょうがないんだけどさー。

 とりあえず『哲学の歴史』11巻を読みふける。しかしこれ難しすぎませんか? ラッセルの項目はとりあえず挫折することにした。bさんの先生でもある戸田山先生という方の記述で、彼の記述だって文体だけでよくわかる。特に注と参考文献の書き方が少年ハートで熱い。
たとえば

Russel,Bertrand[1903],The principles of Mathematics,London.
 ◆ラッセルの数学の哲学の出発点となる重要な著作。とにかく、わけがわからなくてこのうえなく楽しい本。何回読み直しても、「あれ、こんなこと書いてあったっけ」と発見がある


 書名略
 ◆置き換え理論を捨ててタイプ理論に転向した論文と思われていたが、もしかしたら偽装した分岐置き換え理論を展開した論文かも……と曰く付きの重要著作。

『研究文献』
 書名略
 ◆天才が天才を論じたのでワケがわからないところもちらほら

 書名略 
 ◆ラッセル読みにとっては「もう、スリリングで面白くて、涙が出ちゃう」ほどの傑作。『原理』から『プリンキピア』までのラッセルの歩みを筋を通して再構成しようと苦労している人(いるのか?)にとって必読書。

 
 ですよ。しかし肝心のラッセルの項目は、あっぱらぱーな一般ピーポーにとってはよるなさわるなくるなちかよるなの論理記号波状攻撃に加えて「わかりやすくするため」の様々な工夫がサッパリわからず、哲学をただ見てるだけの俺たち乗っかり野郎の劣等感をヒシヒシと刺激するすさまじい記述の横溢による猛攻である。解説PLZ。クラスとオーダーとマトリクスがまったくわからん。わかったようなわからんような。あとパラドクスがどうパラドクスなのかもよくわからん。これが論理学の底力かっ! くそ、俺たちじゃ手がでねぇぜ!
 しかも例示が恐ろしくマニアックだ。

 ここでいう「指示対象を知っている」は、その対象について聞いて知っているとか、本で読んで知っているのではなく、じかに出会って見知っているのではなくてはならないはずだ。「飯田隆」という名前の人について『言語哲学大全』の著者であることは知っているが、本人を見知っているわけではない人Sがいるとしよう。

 ふ、ふつうの人は「飯田隆」が『言語哲学大全』の著者であると知らないと思います・・・。という突っ込みを許さないこの断定振り。Sさんて実在の人物ではないかと疑いたくなる。
 例示がハゲのフランス国王とか、ハリーポッターとかで飽き足らないこの無駄なハングリー精神。すげえぜ、名古屋。


 でもこういう楽しい書き方ができる人は日本文学にはもうほとんどいないので、いい人材がある業界だなーって思いました。俺もこんな感じで書いてみようかな。
 卒論も近いのに、あーもう。

CLAMP的想像力。

 ひさしぶりに漫画をよもうと、ふとエンジェリックレイヤーを読んでいたら、主人公の岬が中学一年生であったことに気付いてはっとした。
 岬の通う(ことになる)学校は聖エリオル学園といって(聖がついたか怪しい)おそらくはキリスト教系の共学である。
 で、CLAMPは学校に「きわめて安定的でありながら動的に出来事が展開されるプチ異界ないしプチ現実としての要素をもとめてる」ので「そういう場所が展開されうる学校は二重の意味で限定的な空間である。一つは問題行動や非行が横溢する底辺校であってはならず、オチこぼれが生きて生けないほどの進学校であってはならず、同じ理由でなんらかの志向性や導きが子供たち(主人公ら)に与えられる学校でなくてはならない。」だから、「そうした導き、あるいは志向性を裏側から担保するのが、学校の特性である。その特性にキリスト教系、あるいは私立学校系の独自の教育哲学がありそうな学校が必要とされ、それは同時にファッショナブルな意味づけを与えられる空間である必要がある(憧れの対象となる?)」
ゆえに、「キリスト教系っぽい、かわいい制服の横文字の学校」がCLAMP的想像力の片方の源泉である。

 という論を展開しようと思ったが、これは家に帰ってからね*1

*1:出かけようとしたところ、親から非常に不愉快な質問を連呼された不愉快になる。人の体調を聞いてどうしろというのか。しかもその体調の参照先が自分の体調かよ。喉が痛いといってる人にたいして質問を浴びせかけるのもどうよ。心配してるんならそういうことはしないでほしい。ほんとにやめてくれ。いらいらした。