GWの一人シンポジウム

  えー、いまご紹介にあずかりました。たたです。えーっとですね、まぁ与えられたお題が「SF」ということですが、そこまでSFについて造詣が深いわけじゃなし、ここでは簡単に自分の興味あるところだけぱっとはなそーかなと思ってます。それでいいですか(笑)
 まず文学史的な理解でSFを語ろうと――つまり通時的な伝統としてSFを再構成しようと――するならば、その源流はいくつかに分岐して漂着するでしょうね。文学史は、ある意味では創造的で想像的なリレーションですし、そういう関係性に担保される営みですから、そのなかである程度妥当な影響関係を模索しようってことなる。そのときに、小さな、あるいは泡沫的な影響関係が指示できるところは枝葉みたいに切られてしまう。切られてしまう影響関係を穴埋めするしていたのは作者の才能とか、作家の独自性とかで十分ってことになる。僕はそれに不満なんですね。作家がそう書き込んだならば、装書き込んでしまう強力な外圧があるに違いない。ないわけがない。と僕なんかは考えてしまう。間テクストの概念を持ち出すよりも、単純に作家の才能ってやつに不審があるんでしょう。
 だから、僕の興味は一つのテクストをとりまく環境と、その環境がどのような外圧となってテクストを成形するのか、という力関係にある。この力関係には通時的なものもあるけれど、むしろ共時的な影響関係のなかで考えるべきことが多いんじゃないかって思うわけです。

 そういう「共時的な影響」には、作品と読者の共犯関係のなかで作品を捉えなきゃいけないって思うんですね。その最適なモデルケースには、東浩紀という批評家が提唱する「データーベース消費」の概念があります。データーベース消費とは、オタクにありがちな、自分たちの見たいものが作品のパーツとして埋め込まれているいるかどうかによって消費の対象を決定する、という消費の形態です。具体的には、アニメに「萌えキャラ」がいるかどうか「ロボット物」か「青春物か」「百合ものか」というようなカテゴライズ「だけ」が作品享受の対象を決定するファクターになる、とまとめることができるかもしれません。そのファクターの集合体をさしてたぶんデーターベースというのでしょうが、僕の興味は、そうしたいわばデーターベース内のつぎはぎ、パッチワークをどのようにして構築していくのか、構築されるのか、ということがあるんですね。
 このデーターベース消費はオタクの特権、というか、「動物化」した人たちの享受形態だといわれますが、まぁそれを認めるとして、というか認めざるを得ないんだけど、データーベースという概念がこの「共時的」な分析にはけっこう使えるんじゃないかと思うわけです。同時にあるいは、こうした共時的な分析を受け入れやすい作品群としてSFというデータがあるんじゃないか、なんて僕は考えるわけです。つまり、SFであるかどうか、を対象にしてその作品を受け入れるかどうか判断する人たちの群がいてその人たちが、なぜSFを好むのか、というような分析ですね。あるいは、もう少しロワーなファンってのがいて、「SF」であるかないかは別に対象としないけれど、その他の要素、たとえば萌えキャラの存在であるとか、アニメーションや文章のクオリティであるとかが一定水準であればSFを消費の対象にすえてもかまわないって人たちがいるってことです。
 東がデーターベースの例示で出してるのは、――えー、名前をいっちゃいけないのかな。ようするに萌えキャラを探すポータルサイトなんですが、僕はここで云われているデーターベースっていうのはselect機能しかないような小さな静的なものにみえるんですね。でも実際のデーターベースってのはもっと大掛かりなもの、それがシステム的な欠陥としてすら看做されるほどの巨大な情報の集積=分析態なんです。つまり、もっと動的で入れ替わりの激しいシステムとしてデーターベースってものは本来ある。データーベースとは文字通り「データー」を管理する巨大なアプリケーションであるはずなのです。そして、東がいっているようなデーターベース消費もまた相当動的なものではないか、と僕は思うわけです。つまり、流行廃りがあるってことですし、それは個々人のデーターベースのみならず、恐らくは個々人のデーターベースを構築するために「社会に配布されている」巨大なデーターベースがあると考えることもできるのではないでしょうか。まぁそれは置いておくとしても、つまり、「データーベース的」という言い方には東がいうよりも巨大な含意がありそうだ、ということです。。
 なぜそういうことを思うのかっていうと――ああ、SFから離れてますね――それは私たちが作品に「飽きる」からなんです。つまりもし全く動かないデーターベースに照合する形で作品を享受するならば、僕たちは作品に飽きることがないはずだし、そうした要素それ自体にも「既出」や「またかよ」というレッテルを貼り付けたりしないだろう、なんて思うわけですね。もちろん東はそうした議論に予防線を張っているし、オタクという享受層に限って云えば、悪い意味なのかもしれませんが「舌の肥えた」享受層であることを述べているところがあるわけですね。東の分析の鋭さもそういう由来があるんでしょう。
 SFがおもしろいなって僕が思うのは、つまり現在のサブカルチャーも含めて、ということですが、こうしたデーターベース消費をモロに受ける一つのデーターに過ぎないのに、「次を考える」ことを誘発させるような因子をもっているんじゃないか、と思うからなんですね。SFはその意味で「ただの好き嫌い」を超越しうる可能性を秘めている。
 「次を考える」っていう僕の言い方はどうもうまくない気がするけれど、ちょっと変な要約でいえば、東が述べる「動物から人間に」なるための実存的な諸問題を享受者たちに吹っかけてくる要素をもっているんじゃないかって思うわけです。それはグレッグ・イ−ガンみたいな硬派なSFよりも、『機動戦艦ナデシコ』とか『ガンダムシード』みたいな特定享受層をモロに狙って作られるような作品にこそ露骨に表れているんじゃないかと考えます。あるいは『月面兎兵器ミーナ』のような際物な作品群、データーベース消費の体現のような作品――つまりモエモエしてる作品とか、一般社会には到底受け入れ難い作品――こそにそういう暗黙的な戦闘が担われていると思うわけです。その最たるものは『スーパーロボット大戦』て、今度OGがでますが、――僕はそれがでるのを楽しみにしてるユーザーの一人なのですが――がふっかけてくるような戦争論の問題です。この「スパロボ」については僕の前のブログを参照してください。上のテキストボックスから「スパロボ」といれればでてくるはずです。
 そういうのとはまたちょっと軸足をずらしたところには、冲方丁小川一氷、あるいは神林長平のような作家がいる。とくに神林ですね。やや古い人、ってイメージがあるかもしれませんが、僕は非常に重要な作家だと思います。

 とりわけて考えるべき作品は『ガンダム・SEED DESTENY』と『戦闘妖精雪風』だと思います。この二つを並べて論じる、ということはしませんが、どちらも重要な作品だと思うのですね。それなりの意味で。

ガンダムSEED DESTENY

 『DESTENY』はガンダムSEEDの二作目で現在のところOVAのスターゲイザーがあるものの、正直そんなに評判がよくないようですね。バトルに使いまわし絵が多く、種割れといわれるニュータイプを彷彿とさせるトランス状態にほぼ全員がなっていく後半や、強さのインフレが起きるロボットものなんかありかよ、っていわれるいろんな状態がそういう評判を誘発させたのでしょう。特に、腐女子層と呼ばれる享受者たちから評判が悪いようです。キラとアスランという友人同士の死闘と和解というテーマが軟化され、登場人物が多く関係性が複雑になる一方で、それらの関係が浅いものとして捉えられたのかもしれません。
 とはいえ、僕はこの作品を非常に買っていて、それはたぶん連ザⅡの影響が多いんでしょう(笑) でも一方で、この作品がもつ強力な祝祭性と、その祝祭性を支える伝統のリサイクルに興味を覚えます。
 たとえばまずザクがでてくる。しかもブレイズとファントムとガナーがあってそれぞれ武装が違う。ザクもでてくる。もちろん鞭をもって。それからガンダム顔の量産期があって、この変形システムがZを連想させますね。ジムっぽい量産期、グーンやゾノのような旧ジオンの機体を彷彿とさせるたくさんの機体。それからストライクフリーダムのドラグーンや、連結ビームライフル、あるいはアカツキの黄金色は百式を連想させるし、ミーティアは前作から変わりませんが、やっぱりデンドロビウムを連想させる。こうした要素がつまりいままでのガンダムに出てきた様々な作品のパッチワークにみえるというのはまずアンチであれ、賛成派であれ認めざるをえないでしょう。
 それから、ストーリーもそうですね。ステラはフォウのような強化人間の末裔でしょうし、搭乗機体のデストロイはサイコガンダムの遺伝子がある。序盤で、まずガンダムの奪取から話が始まる、という展開もおなじみのものです。
 細かい指摘は付きませんが、こうした細かい指摘が無数にできるということは実は非常に重要なことではないでしょうか。普通の作品、アニメでもゲームでもラノベでもかまいませんが、先行作品のパランプセストは認知できたとしても、そのほとんどは来歴不明の作者の才能に換言されてしまうようなパーツでなりたってしいます。でも『DESTENY』はそうではない。
 先行作品のつぎはぎであること、そうしたつぎはぎをするために先行作品を利用することを仮に「リサイクル」とでもいっておきましょうか。「リサイクル」はちなみに僕の用語です。もう少しここはいい言葉があるかもしれませんが、置いておきましょう。
 『DESTENY』が「リサイクル」によって構築されている、という言い方でひとまずその構造を理解するならば、それだけの先行作品の蓄積が『DESTENY』を生み出したといえるでしょう。その蓄積がいわゆる「ガンダムシリーズ」の連綿たる伝統であるとあっさり片付けることもできますが、もう少し踏み込んで、こうした先行作品の取り込み方を問題にしてみましょう。
 「リサイクル」とはようするに都合のいいところを切り張りするということですが、この「都合のいいところ」だけではなくテクストの隙間にあたるような「空隙」にも転用されている、つまりザコキャラからハイエンド機、ちょっとしたラブロマンスから最後の決戦にいたるまでのいたるところに「リサイクル」が認められます。これは、リサイクルが「都合のいいところ」だけを切り張りするのではなく、ある程度「都合の悪い」ところにも先行作品のヴァリエーションが転用可能な形で存在していることを意味します。「都合の悪いところのリサイクル」とは、山場以外、つまりストーリーの山場にいくため回り道までリサイクル的な構築を必要とするということです。簡単に言えば、一つの作品を丸々「リサイクル」で構築しようとすれば、それは物語として起動する多様な要素をいっぺんに面倒みなくてはいけないということで、たとえば、「ガンダムの奪取」というシナリオをリサイクルで構築しようとすれば、「奪取される側」「する側」「阻止する側」と三つのファクターをすべて切り張りで構築する必要があるということです。ステラは「フォウ」の代わりですが、シンはカミーユの生まれ変わりではありません。そこで「Zガンダム」とは異なる来歴の物語を多用することになるわけです。ガンダムシリーズの伝統、つまりファーストからSEEDまでの諸作品のパワースケールがそれを可能にするというわけです。ガンダムには、それだけ大規模な蓄積がある、ということですが、逆にいえばどれほど多くの蓄積部分が「リサイクル」されずに切り捨てられたか、という証明の裏返しでもあるはずです。
 このような取捨選択の過程をデーターベース的消費の観点、あるいは読者の期待の地平の問題として捉えることは可能です。しかし享受者の反応云々を別として、まず『DESTENY』に与えられる効果として、祝祭性という属性が付与されたことがとくにあげられると思うわけです。
 ペルソナ3の最新版が最近でまして、それにはFESというタイトルがつけられています。フェスティバルのフェスなわけですが、これはいままでのキャラクターが一同に邂逅するという要素、あるいはそれらの関連性が享受者たちの、つまりペルソナファンのキャラクターどうしを繋ぐ想像的なリレーションを満足させるということが、ある種の祝祭性を担保している、ということです。作品の壁を越えるお祭り騒ぎ、てなわけです。カーニバル、といえばバフチンを思い出しますが、むしろここでのカーニバルはヒエラルヒー云々というよりも、現実的な作品世界と、二時創作や作品横断を夢見る享受者たちの想像的な作品世界との融合という点で祝祭性があると考えられるでしょう。それはもちろん、同時にヒエラルヒーの破砕をもくろむものでもあることは注記しておかなくてはなりませんが。
 多くのエロゲーにあるようなファンディスクや、「テイルズシリーズ」の「レディアントマイソロジー」などにも同様なものがありますね。『DESTENY』は図らずも、あるいは相当意識的にこうした祝祭性を取り込んだ作品であるといえます。そこでは、ディアッカイザークの操るザクがそこそこ活躍し、ドムはオーブ連合の新鋭機としてスクーリングニンバスを発動しながらジェットストリームアタックを敢行する。ストライクフリーダムはファンネル、ヴェズバー、二連装ビームライフル、二刀流のビームサーベル、広域破壊のハイマットフルバースト、翼のような青いジェネレーターなど、先行作品における主力武装をほぼすべてかねそろえた夢の機体として登場し、それらとはまた別のコンセプトでインフィニティッドジャスティス、ディステニー、アカツキ、レジェンドなどのガンダムが次から次へと登場するわけです。
 そして、祝祭性という観点からこの作品を見ると、面白いことが見えてくると思います。それは主に二つ。
 一つ目は、意味での祝祭性は、いわば設定やメカニカルデザイン、キャラクターなどの「設定」の上に多く作られていて、それらはたしかに「工学的」な解釈項、すなわち、物語ではなく物語のアーキテクチャに享受者たちの興味があると踏んだ結果としてみることもできるかもしれないということです。物語的な部分にも「リサイクル」が発生していることは前述しましたが、こうした工学的な(つまり臨機応変で行き当たりばったりな)設定がどことない「不気味さ」をキラやラクスの立ち位置に与えていることも否定できない気がします。「不気味さ」というのは、どこか物語を超越した目で見ているような不可解な印象を刺すのですが、たとえばシンのように議長を全面的に信頼することもせず、かといって自分たちで秩序を構築しようともせず、それなのに何が正義か知り尽くしているようなきみょうな 立ち位置を指します。オーブ、連合、ザフトの動向をアークエンジェルがずっと海底で探っている数話がありますが、それらの分析をあっさりと行ってみせるキラやラクスの異常な鋭さが、シンやアスランの苦悩、ステラの狂気に比べてむしろ病んでいるようにさえ視得るわけです。
 そして、この「工学的」なアーキテクチャと設定が物語の浮動性――物語がどう転んでも収拾が付くような不安定であるけれども存在が視得るような物語のゆらぎ――を強力にサポートし、その副産物、あるいは主産物として「正義」の概念に陽気な暴力の肯定を見せています。この作品の最後で、キラが「それでも、僕は戦う!」と叫ぶシーンがあります。議長のディステニープラン、ある種の運命決定論、遺伝子決定論の社会政策のようですが、を完全に拒み、運命を勝ち取る人々の営みを肯定する台詞、と好意的にとれる一方で、これはまさに戦えるものが戦える、強者生存原理だけの台詞にすぎないということがいえます。つまり、この戦争では、戦えないもののことは何一つ考えられていない。ということを暴露してしまったワンシーンだと思えるわけです。
 それが問題になる地平は、まさにこれがSFというカテゴリーに存在しているからだ、と僕は考えます。
 昔僕はブログと、二回の勉強会でスパロボの思想的偏向が、当該作品内部に暗黙的に存在している総力戦体勢における思想戦に由来すると論じたことがあります。それはスーパー系の「山間部の研究所に毎週暇なロボット襲ってくる」という設定を「全世界、全宇宙、全銀河が戦場と化している」リアル系の設定に組み込んだゆえに起った現象と考えていたのですが、『DESTENY』も同様にこの戦いが総力戦であることを匂わせるシーンが多数あります。そして総力戦においては、強者か弱者しかおらず、部外者は存在しません。すべて人のすべてのパラメータが「戦争」への参加を促すのです。
 そうした総力戦体勢であることを享受者はしりながら、それでも戦争状態(これはそのままの意味で、戦闘が行われているシーンをよく見ているぐらいで捉えてほしいのですが)を、先行する作品のプレテクストとともに見ているという二重写しの構造のなかで、見ているわけです。
 そしてその祝祭がおわるその瞬間に、それらが設定の上で起っている偽の戦争であると知りながら、それでも戦争状態の中で戦える特権性を疑う余地を生み出してしまう。この疑いが、テクストとしての完成度や何かとは別に、プレテクストたちの亡霊たちの呼び声と祝祭の最中に生まれるのではないでしょうか。つまり映し出されるキラ・ヤマトの圧倒的な強さと不気味さ。その不気味さを呼び寄せる材料は、プレテクストにもテクストにも存在しません。なによりも、この作品を通じて見たとき、明らかに、そして圧倒的にキラ・ヤマトは正しいのです。その証明は少し脇に置かせてほしいのですが、ではこの違和感、つまり強いものが強いという構図が違和感を覚えてしまう理由はどこに存在するのか。ひとつは総力戦という経験にたいする配慮、はあげられるでしょう。しかし、それだけではないはずですし、そもそもそれではテクストの裏側に張り付いてる「設定」の深読み以上のものではありません。

 その理由は、恐らくSFというものがもつ二重性にあるのではないでしょうか。現代において、SFという詞が生む微妙な手ごたえ、感触。そうした感触を普段の私たちは忘れて、一つのデーターベースの一要素として消費しているのですが、データーベースの一要素に過ぎないからこそもつ猛毒が、現代、私たちを取り巻いているSFにはあるのではないでしょうか。『DESTENY』はガンダムの系譜学に連なる祝祭として構成された、という僕の言葉をとりあえず理解していただけるなら、『DESTENY』の基幹にあるのは科学技術文明の延長線上にある未来、つまり僕たちの歴史と地続きかもしれないオルタナティブな未来なのです。そうした未来を垣間見せるものとして元来のSFは構成されたと信じるのはあまりにも幼稚な歴史観かもしれません。しかし、そうした歴史観とは全く別にSFはそのようなもの、として現代のサブカルチャーにとりあえず根付いているわけです。しかし、その一方で、ガンダムの伝統や、ガンダムシリーズの祝祭性に回収されえないものがいくつかある。そうしたもののスペシャリティというか、可能性を見ることが許されるならば、それは日本の戦争経験と、そしてSFというカテゴライズとカテゴライズからの世界観からの要求によるのだと、僕は考えます。具体的には、なぜ『DESTENY』は総力戦体制の物語なのか、ということと、なぜキラと、あのラストシーン――オーブの戦艦を背景に、アカツキ、インフィニティットジャスティス、ストライクフリーダム、ムラサメ、ドムが編隊を組む――が、恐ろしくみえるのか、という問いかけに行き着くかもしれません。そこには物語り全体を相対化して、有害化してくるメタメッセージ、つまり作品の外側からの声があるように思えわれます。

 そうした毒の一部を『戦闘妖精雪風』から読み出して、私の手番はおしまい、としましょう。

バトル・フェアリー

 『戦闘妖精雪風』は一九八二年だったかな。星雲賞といえば言わなくても分かるでしょうが、日本SF業界でもっとも名誉ある賞を受けた傑作です。これがつい二、三年前にOVAとして生まれ変わって、それからここ数年とても人気がでたし、改めて注目されるようになりました。作者の神林長平についても特に語らなくてもいいですね。最近また人気で、依頼されてラーゼフォンのノベライズ――というよりほとんどオリジナルに近いものですが――なんかを書いたりもしています。
 『雪風』はOVAになる作品の常として非常に多様な批評を受けました。僕もこれからその批評に連なるわけですが、ここでのアプローチとしては、神林長平の作家論というよりも『戦闘妖精雪風』の作品論から議論をしていったほうがいいと思うのですね。実際に八〇年代の日本のSFがどういう状態にあったかよく知らないですし、むしろ八〇年代的コンテクストから切り離されて〇〇年代的コンテクストの中に再配置された『雪風』に興味があるんですね。今なんで『雪風』なのか、不思議でたまらないわけです(笑)ああ、でも『グッドラック』は九九年でしたっけ。それから〇六年年度から小説の第三部が始まりました。SFマガジン不定期連載されています。それから、OVAですか。実は『たすけて! メイヴちゃん」というスピンオフ作品もあったりします(笑)萌えッ子がたくさんでてくる不思議な作品なんですが。
 単純に言ってしまえば、『たすけて! メイヴちゃん』の存在がしめすとおり、『雪風』もデーターベース消費の対象になっているんじゃないか(笑)ということでもありますが。そんなことはわりとどうでもいいですね。そりゃ戦闘機にあこがれ感じない男の子はいませんよ(笑)もちろん美少女にも(それにしても美少女って言い方はなんとかなりませんかね。瀧本も言ってるけど、これは日本の病理だと思います。ま、僕はかまわないのですが(笑))
 とはいえ、この作品を取り上げるのは、もうちょっと裏もありまして、東浩紀――今回の議論では彼の議論を非常に深く援用しているのですが――の文学環境論集Lの2−6に、『鏡像から生殖へ』と題するすばらしい『雪風』論があるんですね。OVAになった記念に作られたもののようなのですが、ポストモダン批評家らしい鋭いけれど鋭すぎる評はけっこう受け入れたがたいという人もいると思うのですが、そこではいくつか重要な指摘がある。
 その一つが『雪風』が精神分析的に明晰である。という指摘です。雪風という作品に、宗教性、鏡像、女性への抑圧といったモチーフや構造を読み解きながら、それらを包括する安定的な世界観の供給を「精神分析の牢獄」が担っていると語るのですが――少々恣意的にすぎる要約かもしれませんが――僕はまったくその通りだ、と思うのですね。あ、つけくわえると『グッドラック』はまた別の議論が担っていることもちゃんと触れています。いわば精神分析批評とメタ精神分析批評のお手本のようなあざやかな読解でとても感心したのですが、これだけでは、『雪風』が何を目指し『グッドラック』が何を展開したのかが分からない。分からない、というよりそういう方向性に伸びていく議論ではないということです。つまり一つの作品を閉じたものとして理解するところから精神分析的なアプローチは始まるわけで、それがどういう外延をもつのか、という点についてはどうしても無視せざるを得ない。それが端的に現れるのは、東の最後の文章ですね。ブラッディロードに切り込んでいく雪風の姿を、射精と子宮として捉えた。それはそれで面白いけれど、その場合の物語りの展開はそのアナロジーに同調する形で理解するほかはなくなる。精神分析はアナロジーとメタファーの強力な使用によって暗黙的な行動構造(無意識的な、あるいは意識的な言表、振る舞い)を明示的な精神構造(欲望、配意)とリレーションさせる技術だけれど、そのリレーションを作ってしまうことに論者は一応であれ、責任をもたなくてはならないわけです。

 僕が雪風を取り上げようと思ったのは、そうした精神分析的に安定した物語である『雪風』が実は、身体と知識の領有をめぐるSFだと解釈したからなのですが、この身体と知識の領有というアーキテクチャは、SFというカテゴリーでで発生しやすい、そして展開しやすいテーマだと思うのですね。『雪風』は機械である雪風と、人間である搭乗者の零との交流録として捉える大きな枠組みをもっています。いわば異質な者同士のコミュニケーションのストーリーとしてとらえる読解は多いようですし、あるいは言語や機械をめぐる神林長平の思索の軌跡の一つの到達点として読みたいというファン心理もあるようです。
 しかし僕は単純に、零が雪風をどう捉えるか、の物語として『雪風』を読もうと思うわけですね。雪風側にはぜんぜんなにも置かないで(笑)つまり、機械という対象にたいする、人間の解釈項の問題、それと「何について何をどう知っているか」つまり知識として何を保持し、見つけていたのか。JAMの正体と、戦闘複合体としての人/機械の存在がどのように形作られるか。『雪風』は他者を領有する物語ではなく、少しずつ認知しあい同じ目的のために合一化していく物語でもあります。その物語を支えているのが、SFというジャンルが持ってしまう来歴の暴力性にあるとおもわれるわけです。SFは来歴を明らかにしてします。
 たとえば「未知との遭遇」なんかもそうだと思うわけです。少なくとも二者がいるなら、その一方の来歴を明らかにすることで技術的な程度も明らかになり認知的なパラダイムも明らかになる。そのパラダイムを語り手の基準とするから、もう一方の不気味な世界との技術的/科学的/認知論的/存在論的差異を、パラダイムに劣る側が認知できない。そういう構造をつくりうる。
 そのストラクチャーは「来歴」の構築物なわけですが、その上に、機械と人間という古びた、しかしもっとも重要な問題を提示してくる。そういう作品として、雪風を読もうという試みがこれから展開してくるわけです。

 一寸トイレに。といって逃げる。*1

*1:てか増補したんですよ。五月五日にね。こどもの日にね。