GW,一人シンポジウム2

あー、長いトイレでした。

続きですね。

戦闘妖精雪風』の商業的価値とは別に倫理的価値があるというような話でしたっけ。ちょっと違うか。一言でいうならば、「雪風」のテーマ(というしょぼい詞を使うなら)が、非常にSF的だという話になります。

 『雪風』の特性をいくつか説明しておく必要があるかもしれませんね。まず、いわば戦闘機としての「雪風」(シルフィードもメイヴも)にある種の人格的な精神があるという設定と、それと乗り手としての零との間には「自己と他者の壁」があるという点です。
 東が指摘していることですが、『雪風』の人物たちは敵/自分の壁をとても気にかけている。つまり自己と他者の境目に敏感だ、という点です。それがFAF/地球 人/機械 人類/JAM というようにさまざまな壁を作り出しているわけです。その中で、FAFが人類の「望まれない/望まれる子供」としての私生児であって、JAMはその中で敵/父という構図が取り出しているわけです。『グッドラック』ではこの構図が大きく崩れているじゃないか、と僕は思うわけです。零は態度を軟化させる。雪風も。 
 『雪風』の印象的なラスト――『グッドラック』に移行するその直前――メイヴの機動力にとって人の存在は機動力を大幅に下げる邪魔な存在なんですよね。だからJAMの基地から逃げ出して、雪風は零を「捨てる」。この排除を『グッドラック』では二人とも取り消すんですよね。そしてまぁあいろいろあって「戦闘複合体」つまり、機械と人がいて初めて有効になるような存在として「機械と人の複合体」が生まれる。その可能性を、零は信じているようです。雪風も。
 この構図は先述した『DESTENY』にはまったくでてきません。ラクスがキラにフリーダムを与えるとき、「新たな剣」という表現を使います。戦争の道具に過ぎないわけです。ハイデガーは、物を道具として人が認知し、それをあたかも自己の延長として使えることを道具的連関と呼んでいますが、いわば道具的連関に取り込むためにはそれが「物」でなくてはならない。その「物」として性質に裏切られたゆえに、零と雪風がそれぞれ他者を、一つの他者として認知していく過程が『雪風』にはあるわけです。零にとって雪風はただの兵器ではありません。自己の力の延長でもないわけです。
 『雪風』のこうした側面が「ROBOT」のような自立的な意思決定機構を含む機械を描く物語の系譜にあるというような指摘はできるかもしれません。しかし、それらが自分の身体をめぐってなされるという所に興味があります。
 まず零という存在は雪風にとって、自己のポテンシャルを逓減させる存在としては邪魔です。零はそのことを知っている。それでも、雪風が必要とするのは、自己の敵である機械のJAMを乗り越えるための潜在要素としての人間、です。JAMは人を知らない。けれども「雪風は人を知っている」のです。同様に、零は「雪風を理解できる」。この互いの認知はたとえば、友情とか愛情とか、絆とかというものに似ているのかもしれませんね。しかし、そうした絆を発生させるためには他者の存在――というより来歴――を知っている必要があります。「不気味なもの」というタームを使ってもいいのなら、「不気味なもの」は他者ですらないわけです。信用に値する来歴を持っていないと、人は信用ができない。
 こうした来歴を明示するのは、これがSFだから、といってはどうだろうか、というおおざっぱな枠組みを提示するわけです。つまり雪風は生み出された存在で、零は地球の社会システムからたたき出された「犯罪者」です。この来歴を保障するのが、つまり科学技術と認知可能性に興味をもち、それらを技術と経験の積み重ねによって見出していくという歴史構築を行うSFというフレーミングだと。
 この証明はもう少しかかりそうですね。

 一つはファンタジーを見出しますか。たとえば魔法というものがある。これは「ある」ことが重要な類のものだと思われるわけです。つまり、最初からそこにあって、それは「使える」。ハリーポッターでもよいですね。ハリーがなぜ魔法を使えるかはその血筋という来歴が設定されますが、魔法そのものは来歴不明な力に過ぎません。来歴がない魔法それ自体は、まさにその威力の大小だったり、使い方だったり、物語がそれらを認知して領有している範囲だけで使われるものになります。リアリズム小説――形式的な意味ではなく、ここでは日常を舞台にするという意味が強いとうけとってほしいんですが――の制約は、まさに私たちの領有している世界を書くという点にあると思います。無いものは書いてはならない、というわけです。ありそうな、とか、ありがちな、とか、起りうることを書くということですね。ここはちょっと後で触れるかもしれません。

 SFはまさに未来を、構築的な歴史の要因として描き出します。なぜかそうなっている、という魔術的な設定があるケースもありますが、少なくとも雪風ガンダムもそうじゃない。来歴とは言い換えるならば、事態の原因かもしれません。原因から結果まで完全に、あるいは予測的に手に入れる科学技術宇宙。それがSFなわけです。
 『雪風』のSF観をそんなふうに見ることはとても矮小なことかもしれません。が、だからこそ零と雪風の複合体は神秘的な融合(人類補完計画?)ではなく、互いの来歴を含めた形で、他者の全てを知り尽くした上での、領有しあいながらその境界を設定しなおす、融和を行おうとできるのです。こうした境界線の引きなおしは、『雪風』の精神分析的安定を木っ端微塵にふっとばすかもしれません。東の分析を借りれば、『グッドラック』は「美しい物語り」なわけではない。いわば父も母もそれぞれ混濁し、自己の分裂は他者によって支えあい欲望は互いの中に取り込まれる。他者の境界線を自己の境界線とともに引きなおす苦闘の連続が『グッドラック』にはあります。JAMは相変わらず敵ですし、状況、事態はそれほど変わってないのですけれども。
 こうした境界線の引きなおし方は零/雪風にだけおこなわれるわけではありません。ですが、まぁそこは置いておきます。こうした関係性の流動と登場者の関係性の引きなおしの連続はまさに異質なものとのコミュニケーションというテーマを想像させますし、それがセントラルなメッセージになっているような気もたしかにしないではありません。
 とはいえ、僕はここの部分にコミュニケーションというよりも、互いのコミュニケーション以前の問題。知識というか、相手がナニモノかしっている安心感の問題があると思うわけです。雪風は機械でそれ以上のナニモノか。だからこそ零は信頼ができる。つまり「雪風」は零にとってただの機械ではないけれど、同時に確実に機械ではある。
 そういういい方をゆるす歴史的な構築が『雪風』の世界にはあるし、SFっていうのはそういう壮大なバックボーンを作りやすいものではありますね。『ガンダムSEED DESTENY』とは違って、これはすべてオリジナルですが。
 
 そして、アニメ版の雪風に言及しないといけませんか。


 なんですか、抽象的な議論が続いてさすがに疲れました。そろそろ棺桶に入るべきときがきたのかもしれません。
 
 次回はまとめと補足ににはいって終わり。