GW、一人シンポジウム最終日

シンポジウムも最終日ですね。さっくりといきましょう。

最後にお話したいのは、そうですね。いわゆる文学っぽいSFとの連関についてです。そうした作品群と、私たちを取り巻くSFがどういうものであると考えるべきなのかということでしょうか。
 最近レムが死んでからあちらこちらで追悼フェアが組まれるようになりました。一つはレム著作集の刊行ですし、ジュンク堂なんかじゃいまだにブックフェアが組まれてる。新聞でも死亡記事がでましたね。あまりにも小さいものではありましたが。もし日本でSF作家が死んだとして、同じ程度の扱いを受ける人が何人いるでしょう。いないわけではないです。小松左京筒井康隆(はもはやSF作家ではないかもしれませんが)、眉村卓など。でも、彼らの作品がいまげんざいのSFっぽさをどれだけ担保しているかは疑問です。
 
 この二日間で僕が『DESTENY』を取り上げたのは、それが現在あるSFのある意味ではもっともオーソドックな形を体現しているからです。それはガンダムという広く認知されてきた作品をどれだけキレイに吸収したかの見本であり、また、それらの転用だけで構築するとこうなる、という見本でもあったわけです。サンライズ作品ではありませんが『ヒロイック・エイジ』なんかと比べると、まさにどういう要素がデーターベース的な消費に要求されるかそうとう明示的に理解できると思います。期待の地平の体現なわけですね。まぁ、視聴率は悪かったみたいですがww
 『雪風』は八〇年代と〇〇年代を結びつける要素がある名作として発見されたもの、と僕は見ました。つまり、作品として忘れられることがなく、その「古さ」をリメイクによってカバーされうると判断された作品、それには、メディアミックスやリメイクによっては、変わらない根っこのようなものが要求されます。それが他者との境界問題、それを発生させる科学文明の物語りというSFの枠組みだということです。

 現在の、かぎかっこつきの「SF」を除いて、一般的な意味で目にするSFがレムや小松左京の伝統に乗っているかといわれれば、即答で否と答えたくなります。それはハリウッド映画や、日本で作っては失敗するプチSFもそうです。『ドラエモン』のせいで、「すこしふしぎ」なものもSFになってしまいましたが(笑)。こうした文化的な「保存」を受け付けない、というのはラノベ性質らしいのですが、強力に文化的な保存を受け付けるがゆえに一から百まで先行作品を参照されて解釈される文学作品より二倍はましでしょう。新人がでるとすぐ「○○の再来」とかやってるから信頼をなくすんですよ。
 文学的なものとガンダム的なものとの連関は、ある程度はあるんだ、という主張もできます。どうように、ある程度しかないんだ、ともいえます。どっちもどっちですが、両者をつなぐ解釈項がないってことではないでしょうか。
 それは、SFについて、あるいはSF的な連関やSFが発生させやすいテーマやキャラクターや、あるいは物語について私たちに未知の要素を解析する手間、SFの、ストーリー・アーキテクチャとしての可能性を追求されてこなかったのではないか、と思うわけです。
 
 カテゴリー的な面白さや期待感は、所詮データーベース消費の対象に過ぎません。しかし、重要なのは、消費する対象うんぬんよりも、受け取らせるメッセージの固有性にあります。このシンポジウムは、それを作品レベルではなくカテゴリレベルで調査してはどうか、という膨大な提案だったわけです。
 その際、いったい何がSFで何がSFではないのか、という境界問題が発生するわけです。そもそもカテゴリが明示的にあるジャンルではないからこそカテゴリとして有用だということもいえるかと思います。

 しかし、現状であえてSFとは何かを定位させてもらえるならば、そのキーワードは「来るものの来歴」を操るカテゴリだといえるのではないでしょうか。言い換えるならば、そしてこの定義は史的な定義としてもある程度は有効なものではないかと期待するのですが「不可能的な未来」、つまり私たちの今生きている環境の延長線上に「ない未来」の可能性だということです。逆にいえば、私たちの未来という尺度が有効なカテゴリでもあるわけです。
 そして、それは時間軸的な延長を問題にするがゆえに、事物の来歴を周知していると考えられる。その来歴をもって、自己と他者を分断していったり融和したりできるのです。
 裏返して言えば、いまあるSFっぽいものとは、アーキテクチャレベルでは「来歴」をめぐる物語に過ぎない。ともいえます。だからこそ物語上の未来においては、設定ごと変更されるような「ズル」がまま行われるともいえます。ガンダムでいえば、つよいきたいを持ってる奴の勝ちで、それを手にするかどうかは偶然や物語性よりもむしろ設定上での必然性によるって考えればいいかと思います。マオインダストリーに知り合いがいるとかなんとか。まぁ直近三作ぐらいですが。
 その一方で、アーキテクチャ自体の来歴も問題とされます。それらがどのような作品の連関を通って、形作られたのか。これはSFに関わらずすべてそうかもしれませんが、魔術的などの設定と異なって、工学的な設定とは、他作品や自己の作品連関での来歴の中で位置づけなければならないものだ強調することはできるでしょう。

 そして、その来歴の透明さはむしろ、享受者側に跳ね返ってきます。それは恐らく二つの次元で。一つは作品内部の物語を構築してきたデーターベース的消費の来歴について。これは『DESTENY』のところで述べたので繰り返しませんが、ようするに「工学的」な興味によって構築した、いきあたりばったり(ある意味では完全に理想的なはずの)なストーリーが一瞬だけ破綻するシーンがみえることがあるということです。それは、自分たちの「データーベース」がもつ暴力性に気付かされる契機となりうるでしょう。その意味で、この次元での反射とは、自分たちの享受を見直すシーンであると思います。
 そして今日の議論と関連する二つめの次元が、それらが私たち自身の来歴と密接にかかわりうるという点です。それは、日本にいきる、あるいはサブカルチャーに接して、文学に接して、享受者が、どのような環境に生きているのかを問いかける作品群を形成しうるのです。リアリズム小説とは私たちの想像力でその行間を埋められるものだという議論があります。逆にSF的な想像力と来歴性とは、私たちが自分たちの未来として選択し得ない可能性を、自分たち自身の参照によって理解する物語であるともいえるのです。ずいぶん前に『スパロボ』を取り上げたとき、そこの総力戦体制が日本でしか経験し得ないものだということも述べたことがありますが、まさにそのような経験が、まるまる投影される/するトポスとしてSFはあります。そして、そのような投影を見たときに自分自身を省みることができる作品群を生み出しやすい土壌がSFにはあるのです。そこでハインラインの『宇宙の戦士』を思い浮かべることもできるでしょう。ガンダムの元祖とも言われている作品で、この作品が「ファシズム的だ」という倫理的な批評をうけたことがありました。そういう倫理的な批評がまさに私たちの過去を参照する形で行われたということに僕は興味を持ちます。

終わりに。

いくつか異なるレベルの混在する議論になってしまいましたが、俺のGWがこうしてつぶれて本当に悲しいなって思います。俺は本当は昨日下北沢とかにいって原宿ホットを食べて、表参道か竹下通りにいってぶらぶらしたり、あははうふふっていいながらアイスクリームをほおばったりしたかったのに。くそ! 呪ってやる! しねお前ら!!

  • あと、東方の最新作がでますよ。
  • 連ザで俺、またぼろ負けしたんですよ。
  • 教育実習いきたくない。