善悪の魚河岸。

エウレカアアアアアアアー!

あ、いまのはおはようって言葉の婉曲な表現でした。


ところで、読売新聞で『漂流する倫理』『匿名社会』ってへんてこな特集をやってるんですが、昨日教育実習で話されたことを思い出したのでそれとからめて。


 教育実習で生徒に電話番号を教えたAさんに、深夜ゼロ時ごろ生徒から電話があった。どうも歌舞伎町にいたらしい。それでAさんは困って生徒を保護。かえるにかえれず、しょうがなく家にとめたら、何もなかったけれど、停学処分になりました。


 てなはなしが教育実習演習で話されたこと。生徒を家に泊めたので、停学にしたらしいんですね。

 つまりここでAさんは、「生徒だった子を見捨てる」ないし「生徒だった子とヤる」の選択肢が正解だったと思われる。「見捨てる」が社会的には一番自分が賢明な判断を下していて「ヤる」はどうせ同じ処分が下るならなんかもうそういうなんか中学生だから、とかっていう倫理は捨てちゃいなよYOU! ってことになるのでしょうね。

 いやぁ、ひどいなぁ。でもなるほど。

 そういえば夜回り先生ってのがいましたが、てかまだいるのですが、ああいう類の進路指導はしないほうが正解なのでしょう。でも見回ってるだけだから別にいいのかな? 「教育者は人間として生徒を導く」とか寝言をぶっこいてる教育哲学のクソ餓鬼どもも所詮社会の犬にすぎないということでしょうか。よかった、これで多少教育哲学の人も好きになれそうだ。

読売新聞の特集で組まれていたのが『漂流する倫理』ってやつで、今日の特集は武士道と品格。「道徳」もまたレディメイドになりつつあるって主張。もう一つの『匿名社会』のほうが面白い。今日のは「公認される人間不信」って話。「他人への信頼度」って、功利主義なんじゃないだろうかと思った。
 他人に対する情報の量の差異が、どういう風に信頼度に影響を与えるのか、とかってことを考えた。ゲーム理論とかでやれるのかな。

あー、匿名社会のネタをちょっと語ろうと思ったけどやめた。匿名社会におけるプライバシーってのは「誰からもアクセスされない権利」を指すんだけど、それはネットという空間において有効なのであって、実社会では無いとこまるし、そもそも「誰からもアクセスされない多種の情報」がある存在として友達とか知り合いとか、クラスの人とかを認知したら、その人とは関係できないじゃんっておれは思うよっていう話をしようとしたがやめる。


 どうでもいいけどテレビで教育問題取り上げるのはもうやめようぜ。
生徒と教師をイジくればなんとかなるって思うのもやめようぜ。だいたい、教育教育っていってるやつは「教えるべき内容」なんてなんももってないスカスカな人なわけで、そもそも教育に携わる気のないやつなんだから。一生かけて与える一方の立場になる覚悟がある人の話に耳を傾けることが大事で、それを相対化する鋭い頭脳を持つ人の話を参考にしながら考えること。まちがってもテレビドラマの見すぎのタレントや、「先生役」をやったことがあるおじいちゃんの話しとかはあんまり聞いちゃいけない。
 


まぁ、世の中は残酷だってことだよ。優しさとかもってても役に立たないよって話。それは昔は大人の世界の話だったんだけど、子供も立派な消費者になったのでそうもいってられなくなったのかしら。
 なので、俺は道徳の授業の時間に「目の前の人に優しさを振るうよりも、あったこともない誰かを心配できる想像力が必要ですよ。パレスチナの人とか、目に見えない環境とか」ってハナシをしようと思った。
 そしてこういう日記を書いて現実逃避をしてる場合じゃないのは俺も一緒。